platkisのブログ

生きていく勇気はないけど死ぬ勇気もない

社会人になるまでにやっておいた方がいいこと

 「大学は人生の夏休み」は多忙な理系大学生をバカにした言葉なのか? 

 その言葉の言外の意味って何なのかが社会人になった自分と同期の社会人を比べてわかった。端的に言えば自分は挑戦をしなかったからだ。

 二十数年生きた積み上げたもの,違う進路に進んで大学で変われたやつなら四年間または六年間くらいの積み重ねたものの差があまりにも大きすぎる。 隣の芝生は青く見えることを考慮してみてもやはり自分はすかすかで薄っぺらいことを事あるごとに分からされる。

これを学生の間に気付けていれば… と何度思ったことか

ボクが社会人になるまでに「したこと」

 高校・大学ともに男女比が一般的ではない偏った集団に身を置いていたので,勉学と小さいころからの趣味(運動系の趣味)を極めることに専念した。 勉学と趣味を極めることのできる環境を長く与えてもらったことはこの上なく良かった。俗にいう「誘惑の無い環境」というやつだ。 これのおかげで自分と志を同じくする人と一緒に事を為す経験をたくさん積めたし,カネと時間以外の制約はそこまでなかったのでやりたいことをやりたいようにできた。

 アルバイトもそこまで沢山したわけではないが,自分には浪費癖がなかったので稼いだ金でだいたいやりくりできて金に困ったことはほとんどなかった。

 学業の方は高校・大学ともに何とか入れた感じだったので,ドロップアウトしないように勉学に励むことがメインでそこまでいい成績というわけでもなかったが, 浪人もしなければ留年もせずストレートで来れた。ほかにはいくつか自分の興味のある学問分野をかじるくらいはやった。

 人間関係に関しては高校から大学で破壊的変更がなされたので,高校の時の人間関係を引き継ぐことはできず大学で新たに関係構築をしなければならなかったが, 多くはなくとも授業や趣味を一緒にする関係を構築できたので人間関係で大きく苦しんだこともなかった。

ほかに挙げることがあるとするなら未曽有の大疫病の影響が青春に被った世代であるものの,それによって絵にかいたような青春が送れなくなったわけでもなかった。

まとめると自分は「そつなく学業とバイトと趣味をこなし,無難に企業に就職すること」をした。 まさに敷かれたレールに乗せられたような過去ではあるが,自分のやりたいことはできたし不満はなかった。

ボクが社会人になるまでに「しなかったこと」

 社会に出て他人と比べてわかったが,まずは異性との付き合いはしなかった。高校・大学の男女比がイレギュラーな環境だったこともあって身近な同世代異性との付き合いがなかった。 アルバイト先も規模が大きくないこともあってか,そもそも人が少なく他人との付き合いがなくここにも異性との関わりはなかった。 途中に未曽有の大疫病の流行で人との関わり合い(コンパとか)が強く制限され断絶されたこともこのような結果を招いた原因かもしれないが,それは同世代みんな同じなので それを言い訳に自分を正当化することは難しい。

 「したこと」の方で自分の好きなこと・強みを極められる環境にいたことを書いたが,その環境では自分の苦手なこと・弱みを伸ばすこともできた。 しかし,自分は好きなこと・強みをただひたすら極めることにしか使わなかった。つまり,「自分の苦手なことに向き合うこと」をしなかった。 自分はあまり活字を読むのが得意ではなく,活字を見ると目が滑ってなかなか内容が目に入らない人種であったが,しまいにはあまり本を読まず,一般的な教養や学術的な知識以外の知識を持たぬまま社会に出てしまった。

 異性との付き合いと苦手なことに向き合うことをしなかった。

他人と比べて気付いたこと

 正直言えば,大学卒業時点では「異性との関わりはやらなかったけどやりたいことはできたし大きな後悔はしていないかな」と思っていた。 というのも,就活でよく聞かれる「ガクチカ(学生時代に力を入れたこと)」に関しては高校・大学で伸ばしてきた自分の強みのアピールでどうにでもなったし,そのほかのよく聞かれる質問に関しても 自分を極めることで生じた出来事を絡めて説明すればよかったので就活のときに自分には他人にアピールするものがない薄っぺら人間とは思うことはあまりなかった。

 しかし,実際に社会に出てみて高校卒業以来にあったやつや同期と話したり飲んだりしたときに自分の中身がすかすかで薄っぺらいことがわかった。

 まず彼らは「物腰が柔らかい」のだ。もちろんそこまで物腰が柔らかくないやつもいるがそれは少数派だ。彼らは大学や社会に出て自分とは全く異なる人々と多く触れあっており すべての相手に対して100点満点とはいかないまでも80点くらいの無難な人付き合いをするのがうまいのだ。これは社会人になって身につけたものである気がするが,同じ社会人なのにここまで違うと危機感を抱くレベルだ。 一方で一つのことを極め続けるためにホモジニアスな集団に身を置き続けた結果,人付き合いという点で視界狭窄を起こし前よりも頑固になってしまったと実感した。

 次に「話のカードの枚数」の違いだ。文学や歴史といった人文学的教養が涵養された彼らは込み入った話まではできなくともある程度までなら話を展開することができ,知らないことに関しては次の飲みなどの席までにキャッチアップして話を合わせられるくらいのものを持っている。 仮にそこまでの深い教養がなくても教養を浅く広く持っているので,うまいこと話題を転換して話せる土俵に持っていくなんてこともできている。これらの話は必ずしも面白い話というわけではないが,漫才師や落語家ではないただの社会人なのでそんなことは別に求めていない。 話のカードが多いことが大事なのだ。

 一方自分は,研究に関するまず一般人には通じない用語を並べた研究関連の話や自分の専攻分野の話(理系なのでこれもわけのわからん用語を並べたものである),自分の趣味に関するマニアックな内容の話くらいしかカードがなく, 話題カードがささりさえすればどこまででも深いことを話せるが,いかんせんそのカードの枚数が少ないし,そのカードが刺さる相手の数というのも非常に少なく人と話すという観点では不向きなカードばかりなのだ。 誤解してほしくないが,ここでは別に自分が理系を卑下しているわけではなく,一般人の科学技術に関する教養の少なさに嘆いているわけでもなく,自分が少しは視野を広げようと努力しなかったことに強く後悔しているのだ。

 大学の履修しないといけない文系科目の一つや二つでも真面目に受ければ少しはマシになったかもしれない。 しかしその文系科目を勉強する主たる目的は「文系の単位を取らないと進級・卒業ができないから」であることが多く,その動機は自分の積極的な意志からくるものではない外からのものであるため, 人生を100回くらいやり直しても自分で面白いと感じた文系教養科目を2回くらい引き当てた以外の98回くらいは大学卒業時に同じことで後悔していると思うのだ。

 この2つの自分にないことは文系でそこそこ人付き合いのあった人ならその能力持っていることが多く,そういう職業に就きがちだからという釈明をすることができるかもしれないが, 身の回りにいる理系だった社会人もそのような能力をもっていたので,文系理系に限らない気がする。

 最後は,はなから自分でも気が付いていたが彼らは「異性を含む他者との関わり合いの数」が多いのだ。別にここでは大学生の恋愛をするべきだと言いたいわけではない。 様々な種類の人との付き合い・まじりあいを通じて自分と他人を客観的に観察し自分に足りない要素や問題点を見つけ出しそれらをもとに自分をアップグレードした回数や量が彼らは自分と比べた時に多いということである。 たとえば自分と他人を比べた時に服装が微妙だなとか髪型きちんとしたほうがいいかなと感じた時,TPOにあった服装を心掛けたり清潔そうに見える髪型や外見を整えることが自分を客観視しそれに基づくアップグレードである。 他人とかかわることで得られるメリットは自分の弱みを改善するだけに限らず,関わった他人から自分では把握していなかった強みを発見することにもつながる。 自分を客観視し,問題点を見つけそれを修正しアップグレードすることを繰り返すことで,より遠いところから自分を客観視することができるようになる。それによって自分の強み,弱みを的確に言語化できるようになるので, 就活などの人に自分の魅力を売り込む場面においてただ勉強だけしてきたやつよりも,大学生活ずっと遊んでいるように見えるやつのほうがうまくいくことが多いのはこのためである。 自分を客観的にみるのがうまいから就活で成功するわけではなく,人と関わり合う間で恥をかいたり,やらかしたりすることによってより重厚な人間になり,成功・失敗を含めた場数を多く踏むことによる純粋な経験の差によるのだ。 多種多様な他人と付き合い・まじりあうことによって自分をアップグレードした結果の中に「人と何かをするときのかかわり方の体得」や「いろいろな会話のカードの取得」があるから上記の2つにつながるのだ。

 結局のところ,自分に足りないと感じたものすべては多種多様な人とのかかわりの欠如と,それをする自分の積極性の低さ起因するものだったということなのだ。

ボクと同じ轍を踏まないようにするには

 自分は高校・大学と自分の好きなこと,強みをただひたすら極めていったが結果的にそれは万人を凌駕するような大それたものにはならなかった。強みや好きなことを極め続けて万人を凌駕するような秀でたものを手にできるのはごく一部であり, そうでないほとんどの人間はどこかしらのタイミングで降りてまわりを見渡して自分の強みを尖らせる方向ではなく,裾野を広げる方向へ転換したほうが社会で生きる上では楽になることが多い。これが俗にいう「大人になる」ことである。 だから,自分の尖らせてきたものが境地に至るか,自分が尖らせ続けているものに対して明確な言語化ができていたりやビジョンを確立できるかしない限りは大衆に迎合したほうが苦しまずに済む。

 大学在籍期間は,未成年飲酒や淫行など公序良俗に反したことや,あからさまに他人に甚大な迷惑をかけるようなことをしない限りたいていのことは「若気の至り」でチャラにできることこそが最大の「学生特権」である。 この間に自分を尖らせ続けるか,裾野を広げるかの判断をいろんな失敗や経験を経て決定することが大学という人生の夏休みに与えられた夏休みの課題であり,それに取り組むことが大事なのだ。 自分はこの課題に真剣に取り組まなかったからこそこうやって社会人になって苦しんでいるのだ。 だからこそ,「女性いない環境にずっといたから彼女作れない」などという見苦しすぎる言い訳をして挑戦することを放棄ししょうもない自分のプライドを保ったり,「髪を染めるのはチャラい」と思って,髪を染めるのはおろか髪型を変えることもしないのは 大学生に課された暗黙的な大学生の本分を守っていないことになるのだ。年を取ればとるほど失敗を恐れて安定択を取ろうとするようになるが,失敗してもどうとでもなる最強の保険「学生特権」を持った大学生という若いうちから安定択をとるのは必ずしも最適な選択ではないのだ。

 他人と比較することで自分が「学生特権」を持っていた間にやらなかったことは数多くあるが,その差を埋めるべく最初にやったのは「身だしなみを整えること」をした。 理系男子大学生はダサいとか清潔感がないといろいろなところで言われているが,これはまさに理系男子大学生を客観的に見た時に生じる問題点そのものであるから,あとは問題解決に取り組むだけで済む。 今の時代髪型を整えるところを探す道具や,いろいろな服やコーディネートを探す道具,他人との付き合い関わり合いを増やす道具が自分と同世代またはそれ以下の世代は生まれた時ないし,小さいころからある世代であるし, それを一番つかいこなすことができる世代でもあるのだ。にもかかわらず矮小なプライドやしょうもない逆張り精神が邪魔をしてそれらを活用しないというのはあまりにももったいない。

 髪型を整えることは清潔感のある身だしなみを作る上で一番簡単だしコスパがいいことだと感じたので,その辺から始めるのが苦しみがないと思う。もしも勇気を振り絞って美容室に行った結果変な髪形にされたのなら別の日に1000円カットか何かで坊主にしてもらえばいい(男なら)。 その時は恥ずかしいかもしれないが,後になって坊主になったエピソードもあとで人と話すネタの一つになるし,坊主にする必要がない髪型になったのなら自分にあう髪型にしてくれる美容室を見つけることができたという成功体験になるし,やってみれば意外とどうとでもなることはあるのだ。 だから「学生特権」を持っている間は挑戦することをやめないことがボクと同じ轍を踏まないようにすることだ。

余談

 あまりにもどうでもいい余談だが,この投稿は四時間くらいで何を書くかから文字の打ち込みまで終わった。自分の人生を振り返ったときにあまり見返したくないところや後悔したところと向き合ったからかそのエピソードが悲しくもするする出てきてアイデア不足で筆が止まることはなかった。けれども,いままでこれほどまでに自分の見つめたくない過去と真剣に向き合ったことはなく,あまりにも自分が情けなく思えてラスト一時間くらいは泣きそうになりながら,時に少し泣きながら書いた。  自分の生まれながらにして与えられた選べない環境を俗に「親ガチャ」とか「出身地ガチャ」といったり,親の育て方によって形成された子の人格の健全度合い,成熟度合いや生まれながらにしてもつ身体の特性などを「子ガチャ」といったりするが,自分は親ガチャ,子ガチャ,出身地ガチャともにハズレではないしどちらかというとアタリに近いほうだと思う。だいぶ恵まれた環境で育ったにもかかわらず大学生を経て中身はすかすかでうすっぺらい社会人となってしまったボクは最低の親不孝者だ。だからこそ少しずつ自分を変えながらボクを産んだことを誇りに思えるような真人間になろうと思ったし,ボク自身も死ぬ前に悔いのない人生にしようと思った。

 一人称ボクはこれを書いている人だけにあてはまることで,一人称自分は一般論や事実だったり,これを読んでいる人にも投影できる対象みたいな感じで使い分けたつもりだけどあんまりそうなってなさそう。